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字幕もまた、演技である

先週の火曜、夜九時四十分の香港ノワールの上映で、私の二列前に座っていた女性が、部屋の他の誰よりも半秒だけ早く笑った。彼女は広東語を聞いていた。他の私たちは翻訳者を読んでいた。その半秒のずれが、今夜私が話したいことのすべてだ。

字幕は、たいていの会話のなかで、非常口やドリンクホルダーのような実用品として扱われている。必要で、見えず、意識されると少し気まずいもの。これは間違いだ。字幕とは、顔の上に、リズムをもって現れる書き物である。間があり、呼吸があり、趣味がある。良い字幕のとき、私たちは自分の読む速度のなかに映画の脈を感じる。悪い字幕のとき、監督と翻訳者が目の前で言い争っているのが見え、映画そのものが痩せていく。

私が知るいちばん優れた字幕翻訳者は、神田の小さな事務所で働いていて、依頼主の名前を決して言わない。彼女はいつか私に、沈黙の一拍には十二字を超えないと決めていると言った。フレームを数える。書いた台詞を自分の声で読み上げ、俳優の呼吸と同じ場所に落ちるかを確かめる。これは実用ではない。これは、フォントによる、毎秒二十四コマの演技であり、観客はそれに気づかないことで彼女に礼を返している。

二列前の広東語の女性は、あの一つの笑いに関して、私的な映画を持っていた。私たちは映画の翻訳を持っていた。どちらも本物だ。どちらが劣るわけでもない。ただ、それが同じ上映であるという建前だけは、そろそろ引退させたい。プログラムに「英語字幕付き」と書かれているとき、それは事後に、たいてい名前もクレジットされない誰かが、監督が会ったこともない観客のために書いた、もう一つの脚本のことを指している。

釜山が始め、台北が続き、渋谷のあるミニシアター(名前は伏せる)がひっそりと追随している——アジアの映画祭では、字幕翻訳者を撮影監督と同じカードに載せる小さな流れがある。エンドロールの最後ではなく、冒頭のカードに。最初に見たとき、それは奇妙に映る。二度目に見たときには、正しく映る。

私は誰にも、広東語や韓国語やタイ語を学べと言っているのではない。ある新作が頑なに関西弁を通し、東京版の字幕がそれを標準語に整えて笑いの半分を失っている、あの特定の関西弁を学べとも言っていない。ただ、部屋のなかにいる第二の作者に気づいてほしいのだ。一行を読み、それを自分の言語で書いた人の名前を尋ねてほしい。あなたが映画を愛したなら、二人の仕事を愛したのであり、そのうちのひとりは今夜、拍手のないまま家に帰っている。

二列前の女性は、クレジットの最後まで残っていた。残っていたのは彼女ひとりだった。灯りがついてもまだ、広東語の名前を、招かれかけた結婚式の招待客名簿を読むように、ゆっくりと読んでいた。それからコートを着て、私が何か尋ねる前に帰っていった。それでいい。街の最後の暗い部屋は、座席と座席のあいだに秘密を残しておくものだ。